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2014-08-26(Tue)

「うちの子」とは

 最近創作をしている人の界隈で使われている、自分の作りだしたキャラに対する「うちの子」という呼称に、なぜだか一種の気持ち悪さを感じていた。恐らく愛情表現として「うちの子」という表現が出来たのだろうとは思うけれども、何だかそこに、作者とキャラとの距離が限りなく0に近い、粘着質なものを感じている。その気持ち悪さはどこから来るのだろうか、と考えたとき、「うちの子」という呼称には、「私の思うがままにしか振る舞わない、私だけの子供」という支配欲と自己顕示欲が込められているのではないかと考え付いた。

 「うちの子」と似て非なるものとして「登場人物」という言葉をここで使ってみるが、本来、登場人物、つまり架空の人物というのは、ある物語の中で動き、物語を動かすための存在だと私は考えている。従って、作者は登場人物の性格や容姿を設定するときには、物語の中で破綻がないようにし、設定に変更を加えるとすれば、それは物語を練り上げる上で必要だから、ということになるだろう。しかし、「うちの子」という呼称を使ってオリキャラを展開している人々は、どうもその「物語」という概念が欠落しているように思われる。「うちの子」の容姿、人格、設定、他者との関係は、全て作者だけに都合の良いように作られ、作者の思い通りにしか動かない。登場人物が物語上の都合という制約があるのに対し、「うちの子」にはそれがない。作者が「こういう能力を付け加えよう」と思えば即座に付け加えられるし、「こういう恋人がいたらいいな」と思えば「うちの子」の、つまり作者の理想の恋人を作りだすことも出来る。そして気に入らなければ、存在ごと消すことも出来る。

 ここで「物語自体も作者の思い通りになるのだから、結局同じではないか」と考える人もいるかもしれないが、実際物語を書くと、好き勝手に登場人物の設定を作ると破綻することが多いし、当然「こういう能力を付け加えよう」「こういう恋人がいたらいいな」という気持ちだけでいきなり設定を変えたり、唐突に登場人物を付け加えることは出来ない。もしそれを平気で行っている作者がいたら、彼/彼女の物語は他人に読まれて成り立つものではない(もちろん、プロならともかく好きでやっているだけならそれでも構わないが、物語の質は低いと思う)。

 「うちの子」というのは、つまり、作者が完全に支配できる存在であり、作者以外の干渉を一切受けない。「うちの子」には意思がない。「うちの子」の意思、行動は、全て作者の理想を反映しており、もし理想の反映が上手くいかなければ、「うちの子はダメだ、よその子が欲しい」と作者は言う。これは、「うちの子」という呼称そのものが端的に表しているが、「自分の娘/息子を思い通りに育てて、自分の思う人生を歩ませようとする」親の姿とよく似ている。しかも、「うちの子」は現実の人間と違い、作者の知らぬところで作者の知らぬ人物や物事にあい、影響を受けることもないし、作者に反発することも、作者の思いもよらない行動をとることもない。「うちの子」は時に倫理的・社会的に悪い振る舞いをするかもしれないが、それも結局は作者を満足させるための行動でしかない(むしろ作者の理想の反映ならば、作者が実際には出来ない悪い行いをすることはよくあるだろう)。もし作者が気に入らなければ存在を消し去ることも簡単だ。

 たまに「私のことはいいけれども、うちの子を悪く言わないで」「『うちの子はダメなのでよその子が欲しい』と言う人がいますが、それを聞けばあなたのキャラが悲しみます。あなたの子を悪く言わないでください」といった発言を目にするけれども、前者の発言は「うちの子」をかばっているように見えて実際「うちの子」をコントロールしている自分をかばっているように見えるし、後者の発言は「うちの子」が作者を愛しているということが前提となっている。どちらの発言からも読み取れることは、「うちの子」と作者がほとんど一体化し、「うちの子」は作者に依存して、作者の思うがままになるしか存在する方法がないということである。この依存関係が、先に言った気持ち悪さの元なのだろう。

 どうしてそういった「うちの子」というものが出て来たのか、私にはまだよく分からない。友人は「母に抑圧されてきた娘が、自分がされてきたことを無意識のうちに『うちの子』にしている」という考えを出している。確かに、現実に母親に抑圧されてきて、まだ子供を持っていない人間が、二次元の力を借りてそうすることもあり得るかもしれない(実際そういう人間が親になったら子供を抑圧するだろう、ということではない。いい親になる可能性も充分ある)。私は、現実世界でうまくいかないことを抱えている人間が、せめて「うちの子」という完全にコントロールできる存在を作りだしているのかもしれないという仮説を考えてはいるが、実際は「うちの子」を抱えている作者は無数にいて、境遇や環境もそれぞれなのだから、一概には言えない。しかし「うちの子」を作りだしている人間は、自分がコントロールし、自分しか知らないことが沢山ある(裏設定というものがそれにあたる)存在を生み出すことによって、万能感や支配感を得ている、ということは分かる。そして、そういった万能感を抱きながら、「うちの子」について語ることは楽しい。楽しいから、「うちの子」が続々と生み出されていて、「うちの子」ブームになっているのだろう。

 この記事は「うちの子」を抱えている人からしてみたら我慢ならないかもしれない。だが私は「うちの子」などいなくなれ、と言っている訳ではない。むしろ興味を抱いている。そして、「うちの子」が作者に依存することなく動き出し、魅力的なものになっていく可能性もある。「うちの子」が作者の自己満足の産物になるか、他人も魅了するものになるか、その分かれ目もいずれ考えていきたい。
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2014-04-10(Thu)

Let It Go (『アナと雪の女王』より)について(2)

(『アナと雪の女王』のネタバレがあります)
さて、『アナと雪の女王』の挿入歌'Let It Go'について書いたが、(1)での「過去を手離すという犠牲と引き換えの自由」というテーマの他に、というよりもそれと関連して、もう一つ付け加えておきたいことがある。エルサの「孤独」である。

この歌のはじめから、エルサは孤独を歌っている。'The snow glows white on the mountain tonight/Not a footprint to be seen/A kingdom of isolation/And it looks like I'm the queen'(「雪が山を覆う夜 足跡ひとつ残らない/隔絶された王国 私はその女王」)足跡ひとつない雪山の、隔絶された王国で、エルサは自分がその国の女王「のようだ」'it looks like I'm the queen'と歌う。ここから'Here I stand and here I'll stay'(「自分の道を行く ここは私の王国」)という箇所までで、エルサが徐々に自分の力と自由を自覚し、自分の居場所をしっかりと見つめるまでが描かれている。

しかし、その居場所である「王国」にはエルサ一人しかいない。'You'll never see me cry'(字幕「二度と涙は流さない」だが、ここでは「涙は見せない」とする)とあるが、それは当然のことだ。涙を見せる相手がいないのだから。

歌は、エルサがバルコニーから城の中に入り、扉を閉めるシーンで終わる。これは映画冒頭でアナとハンスが歌う'Love is an Open Door'の内容と対照的だ。エルサは'Turn away and slam the door'(「過去に扉を閉ざすのよ」)と歌っているが、「扉を閉ざす」というイメージが、ここでは過去に対してだけではなく、他の人間に対しても、という意味で使われているように感じられる。

これらの'You'll never see me cry'や、'Turn away and slam the door'という歌詞が、クライマックスからラストまでのエルサの言動とうまく対比されている。孤独だったエルサは妹のために泣き、城の扉も開放する。一回観ただけだが、テーマに筋が通ってるのがよく分かる。


ちなみに男性キャラクター二人の名前の「ハンス」と「クリストフ」はハンス・クリスチャン・アンデルセンの名前をもじっているように思えるのだけれど、ハンスはともかくクリストフはどうかな……。

2014-04-10(Thu)

Let It Go (『アナと雪の女王』より)について(1)

遅いながら、『アナと雪の女王』を観てきた。日本公開前から公式が'Let It Go'のPVを出していたので、観ていたのだけれど、歌のタイトルであり、歌の中で何度も繰り返されるフレーズ'Let It Go'が何を意味しているのか本編を観ていないのでピンとこなかった。本編をやっと観ることができたので、ここで私の解釈を書いてみたい。(本編のネタバレがあるので注意)

この歌を歌っているエルサは、妹アナを幼いころに自身の魔法で危険な目に遭わせて以来、魔法(魔法は感情に呼応するため、自分でも制御できないときがある)を抑え、妹からも姿を隠して暮らしてきた。そんなエルサがアナの婚約騒動をきっかけに魔法と感情を爆発させ、自身の城を離れて雪山で一人歌うのが'Let It Go'である。

'Let it go'の部分は、日本語字幕だと「これでいいの かまわない」となっている。この部分を含め、日本語字幕は、字幕という制限を踏まえるとよく考えられた訳だと個人的には思う。なぜならこの歌は、それまで自分の感情を隠して(戴冠式前でも、魔法を悟られないよう'Don't feel'と歌っている)生きていたエルサが、幼いころの事故以来初めて感情と魔法を肯定するというのが主軸だからである。

その上で、'Let It Go'の意味を考えてみる。結果から言うと、これはエルサが感情と魔法のあるべき姿を開放できるという「自由」を手に入れたのと引き換えに、多くのものを手離さなければならなったという犠牲をも肯定する、いわば「犠牲と引き換えに自由を受け入れる覚悟の一言」である。

ツイッターで「'Let it go'は吹き替え版歌詞の『ありのままの姿見せるのよ』というよりももっと突き放した感じ」というふうなことをツイートされている方がいたが、それは私は正しいと思う(吹き替えでは字幕よりもさらに厳しい制限があるので、ニュアンスを完全に表現するのは不可能なのは承知しているが)。'go'という単語のイメージは、「行く」というよりも「去る」というものであり、この歌では意味を拡張させて「手離す」という意味にも取れると思う。
'it'が具体的に何を意味しているのかは色々考えられるが、後半の歌詞'That perfect girl is gone'(「理想の娘はもういない」)を考えると、「(感情を抑えた)『理想の娘』という自分が今まで演じてきた姿、またその過去」という意味が感じ取れる(ちなみにこの歌詞を歌っているときの映像はエルサそのものではなく、氷の地面に反射した像である)。これに'let'(この単語にもどこか突き放したイメージが垣間見える)と合わせて考えると、「自分の今まで生きてきた過去を手離す(日本語ではうまく表現できないので直訳っぽくすると、過去を去るがままにする)」という風に捉えられる。

しかし、その過去の中には、隠れて両親の死を悼む自分も、戴冠式までの長い間会うことすら叶わなかったアナを想う自分も含まれている。そういった過去も全て「手離した」からこそ、エルサは自分に会いに来たアナも拒絶する。この拒絶はアナを想うがゆえのことであり、心から拒絶したくなかったのは明らかだが、エルサが受け入れたのはそんな状況をも導かざるを得ないような種の「自由」である。よって、'Let It Go'というのは「感情を抑圧していた自分も、家族を想う自分も手離す(そういう犠牲を払うことでしか本当の自分は出せない)」という歌であり、単に「ありのままの自分を開放する」という明るい肯定的な意味の歌ではない。

ちなみに、『アナと雪の女王』は同性愛の肯定を示唆する映画であるという意見があり、この歌が「自身を肯定する内容で、同性愛をカミングアウト(公言)している歌とみなす人々も少なくない」(http://www.sankeibiz.jp/smp/express/news/140408/exf14040800180000-s.htm)らしい。私個人としては、それは解釈としてはやや部分的であるような気がする。しかしそれだけ様々な解釈ができ、それぞれの人がそれぞれの立場と考え方でメッセージを受け取ることができるというのは、この歌がそれだけ豊かな証拠なのだと思う。私自身も、自分の解釈が絶対的に正しく、唯一のものだとは考えていない。'Let It Go'というシンプルな言葉に象徴される歌なだけに、受け取り方も様々になるのだろう。

ジェンダーや社会とディズニー映画の関わりという観点からこの映画全体を分析すると興味深いだろうし、実際そういった研究も出てくると思う。私も分析というほどのものではないものの考えてみたいが、とりあえずこの記事では'Let It Go'の解釈だけに止めておきたい。

2014-02-26(Wed)

更新滞り中

 最近サイトもブログも更新していませんね。小説は書いています。いくつかまとめてアップできたらと思います。

2013-08-21(Wed)

「鏡の子宮」について

「鏡の子宮」は新作ではなく、だいぶ前に書いたものを手直しもせずに放り投げたものである。江戸川乱歩の「鏡地獄」から着想を得た。
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